黄麹を使い南九州で腕を振るう- 焼酎杜氏の先駆け、阿多杜氏 -
鹿児島に2箇所ある杜氏の里は、薩摩半島の阿多(あた)(南さつま市金峰町)と
黒瀬(南さつま市笠沙町)ですが、阿多が少し早いといわれています。
阿多の人は初め酒屋に入り、鹿児島だけではなく宮崎の清酒蔵にも雇われて
どんどんと力をつけていきました。
特に黄麹菌の取り扱いに慣れており、泡盛の黒麹菌が導入される前は
焼酎造りでは大いに腕を振るっていたであろうと考えられます。
阿多杜氏とは
阿多(南さつま市金峰町)について
開聞岳、野間岳と合わせて「薩摩半島の三名山」と呼ばれる金峰山を有する金峰町。シラス大地と平野が広がり、海岸は吹上浜砂丘となっています。
温暖な気候にも恵まれ、米作を中心とした農業が長く行われています。現在でも3月上旬に田植えを行い、7月に出荷される超早場米は「金峰コシヒカリ」として県内外に広く知られています。
阿多杜氏の歴史
杜氏と、杜氏の下で働く蔵子も含めて人数が一番多かったのは、昭和35年で、黒瀬:370人、阿多:120人でした。これほど2つの集落に集中していたのは、報酬が良かったことと、自分が習得した技術は近親者の中でのみ受け継ぎたいという欲求から出たものだと思われます。
杜氏による焼酎の製造技術は、長く限られた親類のなかでのみ受け継がれてきましたが、時代が移り変わり、急激に機械化・自動化が進展すると、杜氏たちの活躍の場が狭まり、杜氏達の高齢化もあって後継者不足となり、平成11年頃には黒瀬杜氏50人弱、阿多杜氏にいたってはわずか5人となってしまいました。
阿多杜氏と黄麹、黒麹
黄麹で仕込んだ焼酎より、生産性・酒質が良好となった黒麹はその後急速に普及していくこととなりますが、黄麹から黒麹への転換は簡単なものではありませんでした。黄麹と黒麹では作り方が全く異なり、その技術を現場で担っていたのが焼酎杜氏だったのです。
最初、麹の製造過程で黒い胞子を作る黒麹を阿多杜氏は使いたがらなかったといわれています。阿多杜氏が黒麹を使い始めたのは戦時中、米が不足したことがきっかけになりました。