黒瀬杜氏

焼酎造りと麹の技術革新- 黒瀬杜氏のはじまりと歩み -

薩摩半島最南端は、海に沈む夕日の美しさとリアス式海岸が景勝地として知られる地ですが、
黒瀬集落はこの東シナ海に深く切り込んだ半島の一角にあります。
平地がほとんどない、海とわずかな田畑に生きる人々は山間を段々に耕して、
古くから男たちは出稼ぎを生活の糧にしてきました。

黒瀬の人が杜氏として出稼ぎを始めたのは明治35年前後といわれ、片平一は小林の地酒屋へ。
続いて黒瀬常一は、加世田村原の焼酎屋へと黒瀬から最初の杜氏が出かけました。

黒瀬杜氏とは

黒瀬(南さつま市笠沙町)

黒瀬(南さつま市笠沙町)について

黒瀬杜氏を輩出した地として知られる笠沙。2005年11月7日に加世田市・大浦町・坊津町・金峰町と合併し、現在は南さつま市笠沙町となっています。

黒瀬地区は坂道が多く広々とした土地が少なかったため、山の斜面に沿って段々畑を造っていましたが、農閑期には出稼ぎ杜氏として、生計を立てていました。

黒瀬杜氏の歴史

黒瀬杜氏の歴史

黒瀬杜氏の系譜は「地酒系統」と「泡盛系統」に分かれます。地酒系統の初代が片平一。泡盛系統が黒瀬常一と黒瀬巳之助の2人です。

明治末、片平一は黄麹を使って地酒造りに取り組んでいたようですが、黒瀬常一は鹿児島の焼酎屋で沖縄の人に焼酎造りを学び、そこで黒麹の扱いを習ったと伝えられています。黒瀬常一が杜氏として働き始めるのは明治30年代後半といわれ、このころが黒瀬杜氏のはじまりです。

それまでの黄麹で仕込んだ焼酎は、鹿児島の暖かい気候でもろみが腐ってしまうものもありましたが、黒瀬杜氏は黒麹菌を普及させることにより、焼酎の生産性、酒質の向上に大きく貢献しました。

黒瀬杜氏が扱う黒麹

黄麹に代わる麹となった黒麹菌は、もともと泡盛で使われていた菌ですが、明治後年、鹿児島税務監督局技師として赴任した河内源一郎や鹿児島県工業試験場の技師・神戸健輔の指導により芋焼酎への導入が図られ、黒瀬杜氏を通じて急激に普及していきました。

黒麹は発育が旺盛で麹が造りやすく、黒麹が作り出すクエン酸が酵母以外の雑菌の繁殖を抑えてくれます。また、クエン酸は蒸留の際、熱を加えても蒸発しないので出来上がった焼酎が酸っぱくなることがなかったため、多用されるようになりました。黒麹を使用して製造した焼酎は、どっしりとしたコクのある甘みとキレの良さが特徴です。

その後、河内源一郎が黒麹が突然変異して生まれた白麹を発見し、白麹が普及することになりますが、現在また黒麹が見直されつつあります。

黒瀬杜氏の故郷 南さつま市笠沙

笠沙から沖秋目島を望む
笠沙から沖秋目島を望む
杜氏の里笠沙と奥に覗く野間岳
杜氏の里笠沙と奥に覗く野間岳
黒瀬地区
黒瀬地区
笠沙から沖秋目島を望む
杜氏の里笠沙と奥に覗く野間岳
黒瀬地区

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